新しいコンテンツ(中庸・標準的な手書き筆文字を徹底的に追究するコンテンツ。書体は誰もが読める楷書・行書・カタカナ・ひらがな)〔その4〕(全5回)
- 2014.11.27 Thursday
- 新しいコンテンツ
〔その1〕〔その2〕〔その3〕からのつづきです。
ところで、
秦末の武将であった項羽(こうう)は、
書は名姓さえ書けたらそれで事足りる、
と言いましたが(『史記』)、
見方を変えれば、
名姓だけは、
何としてもきちんと見栄え良く書けた方がよい、
ということでもあります。
項羽が生きた2000年前も 今 も、
依然としてそれはずっと変わっていません。
おそらくこれからも変わりません。
こう‐う【項羽】
(1)秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となった。のち劉邦と覇権を争い、垓下(がいか)に囲まれ、烏江で自刎(じふん)。(前232〜前202)
(2)能。唐土烏江の野の虞美人草の由来、楚王項羽の刎死のさまなどを脚色する。広辞苑より
だから、当方は名前の見本に特化したコンテンツに、
書くエネルギーの多くを注ぎ込むことにしました。
これを構築するための難儀ならやぶさかでない。
まともな文字を取り戻す。
当方は、
書の古典に・書という芸術に、
大きな大きな大恩を感じています。
だから偽り無く報いたい。
本当にごくごくわずかの、
小さな小さな力しかありませんが、
真摯に報いなければなりません。
(きっちりとした字を書くと、時々、打ったみたいと言われることもありますが、
そもそもフォントが人間の字の真似をしていますので、
どちらかといえば「フォントも手書きに追いついてきたなあ」ではないでしょうか。
ゴチャゴチャガサガサ系文字のフォントを近年よく見かけるようになってきましたが、
これも当然筆で書いた文字の雰囲気をよりどころにして作られています。
こうなると、
手書きの人は、フォントとの差別化をはかるために
もっとグチャグチャと書いていかにも手で書いた感をアピールしようとし、
(プラス、巨大化をはかろうともします。巨大がいいのならナスカの地上絵みたいなスケールはどうでしょう)
フォントもまたそういうものに追いつこうとして
ゴチャゴチャ系を進化させていくかもしれません。
モノ[外見上の姿]として書を進めようとすれば、
両者とも、どうしてもそうなってしまいます。
けったいなことをし続けていかなければなりません。
私は、今は、
文字の状況をコト[様々な名前の見本を様々な書体で書いてそれを広く公開するコト]として
進める方向に興味があります。
もし、モノ[外見上の姿]として文字を進めるなら、
それは、珍獣化の方向ではなくて、
やはり、「活字と手書き文字を折衷したモノ」が、
これからの文字姿のポイントとなると、私はかねがね感じています。
読みにくい文字や読めない文字などは論外。
趨勢になることなどありえない。
文字の歴史は複雑化ではなくて簡略化です。
文章も服装も、大きな流れとしてはみな同じです。
活字のような形を少し採り入れた武者小路実篤(1885-1976)の楷書や、
金冬心(きんとうしん。金農のこと。中国清時代の文人。1687年―1763年)の細身の楷書が、
時代を先取りしています。
芥川龍之介が武者小路実篤の文学にふれて、
〔……その頃は丁度武者小路実篤氏が、
将(まさ)にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。
従つて我々の間でも、屡(しばしば)氏の作品やその主張が話題に上つた。
我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、
爽(さわやか)な空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。
恐らくこの愉快は、氏の踵(くびす)に接して来た我々の時代、
或は我々以後の時代の青年のみが、特に痛感した心もちだらう。
だから我々以前と我々以後とでは、
文壇及それ以外の鑑賞家の氏に対する評価の大小に、
径庭(けいてい)があつたのは已むを得ない。
……(中略)……
又氏の「雑感」の多くの中には、
我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、
一時に光焔を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事実だつた。
往々にして一部の批評家は、
氏の「雑感」を支持すべき論理の欠陥を指摘する。
が、論理を待つて確められたもののみが、
真理である事を認めるには、
余りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。
いや、何よりもその人間的な素質の前に真面目であれと云ふ、
それこそ氏の闡明(せんめい)した、
大いなる真理の一つだつた。…… 【芥川龍之介「あの頃の自分の事」より】〕
と書きましたが、
私は、(このようなことを書くと笑われるかもしれませんが)
実篤氏の文字も、今の時点で、
その頂上に一番近い場所にあるのではないかと思っています。
年数が経つほど実篤氏の文字は新しくなってくるような気がします。
それはまあいいとして[上記45行分のことは忘れてください。混乱してわかりにくくなります]、
いずれコンテンツ内に、きっちり系の文字に関して、
フォントの形にも鈍臭いところが多々ある〈あたり前ではあります〉ということを
ちゃんとした手書きと見較べてあぶり出してみる、
そういう解説頁も設けるかもしれません。
人間の書いたきっちりとした字は、フォントにはまだまだ負けません。
フォントもむろん人間が作っています。かなりの時間をかけて作られたものですが、
当然良し悪しがあります。
ただ、フォントをデザインするタイプフェイスデザイナーの活字には、
(人が作っていますので完璧にはいかないことは当然として、)驚くべき精緻さ・余白の美しさ・
バランス感覚があります。
いま流行りの美文字の人にもここまでの精緻さや真摯さがあれば、
もっといい美文字を示してくれると思います。
〔あるいは、マンガ家が描く絵のクオリティーなどに比べて、
文字を示す人が書いた文字のクオリティーは、はるかに落ちると思います〕
それはともかく、フォントのどうしようもない難点は、
その文字デザインが、
輪郭の中を塗り潰して作られていくというところ。
正方形の中にきっちりとおさめなければならないという点も、
普通の手書きに比べて甚だ不利な点ではありますが、
塗りながら作る、“描き文字” というのが一番の難点です。
手書き筆文字の強みはなんと言っても一回性の潔さ!
そこには始筆・送筆・終筆というか継起的というか、
そういうしっかりとした時間の流れが宿っています。
脈をうったような手書き筆文字の魅力を感じていただけると嬉しく思います)
新しいコンテンツはまだまだ小さな舟ではありますが、
自前のエネルギーで航行できる舟ではあります。
無ければ何一つコトが始まらない、核心部分である手書きによる文字を、
外注などで誰かにいちいち頼まなければならないのなら、
(書いていただけるような人もいませんが・・・)
何とも情けなく、コストも莫大にかかることに加えて、
自分の思い通りの走りの質を追求できません。
書き直しの必要があるときは、
頭を下げて頼みに行かなければなりません。
(そんな不甲斐なさといったらまあない、っていう感じです)
最も肝腎なものを内製できない限り安心してワインなどを
飲んでもいられません。
根幹部分を生み出せないのにオンとかオフとか言っているとすれば、
「きちんとやるべきことをせずに、どうやって運営していってるんだろうねぇ?
泥縄式は通用しないと思うんだけど、大丈夫?
自らできるようになろうという訓練もせずによく飲んでいられるよね。
のんきなもんだ。いつまでも外部に頼っているようなことじゃぁダメだってぇ」
とかと、誰かに言われたりしそうです。
(もっとも、内製できないならそもそもこのコンテンツを作ろうという発想は出てきません……。
大事な部分を人任せにしているようなところから何を学べばよいの? 人に何を教えるっていうの? みたいに思われますよね)
何の話かわからなくなってきました……。。 このまま進むと
話が国の資源のことにまでひろがりそうですのでやめますが、
とにかく、
ひときわ良くてわかりやすいものを、
全国の人々へダイレクトに発信します。
今の時代やこれからの時代にふさわしい、
新しいカタチを提示します。
(ご自分のお名前以外も、
もちろん文字生活の参考になります。ぜひご覧ください。
日常生活のふとした時間にただ眺めているだけでも、
文字感覚がじわじわと鋭くなってくるはずです。
手習いと同じくらい“目習い”も大切です)
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〔その5〕へつづく。
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↓明治時代の、小学生用のテキスト。文部省検定済。明治21年。印刷は木版。
学校の書写で「あめだま」とか「豆まき」とか「社会生活」とかを書いていて、
この時代の人に実生活の文字で敵うわけがない。。。
半紙に大きく「社会生活!」とか、
そんなあまり必要のないものを書くのではなくて、
(半紙のように、むりやり二行で文字を並べるような書き方は人生でほぼ不要。
うまく元気よく書けたところであまり意味がない)
社会での生活に必要な書き方をマスターしたいところです。
この教科書↓の頃は、
「子供らしく元気よく書けました」みたいな、
そんなわけのわからない評価は無かったのではないでしょうか。
今でも、そのまま元気よく書いていると、
高校に入ったとたん、「幼稚や」と注意されます。
子供らしい野球とか子供らしいサッカーとか
子供らしい体操とか子供らしいマラソンとか、
そういうのはあるのかなあ。
繰り返しますが、上↑は、明治時代の、小学生用のテキスト。
(文部省検定済。明治21年。印刷は木版)
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↑武者小路実篤筆
私は本当の人間を愛する あなたも私も本当の人間になりたい人間
私は本当の人間を愛する
八十三歳誕生日 実篤
↑武者小路実篤筆
人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲く也 實篤
↑武者小路実篤筆人物図
人物を始めてかく 失敗の作也 もう百遍もかけばいくらかものになるべし
↑武者小路実篤筆
私はかきたくないものはかきたくない
本当にかきたいものをかきたい
書も画も
八十三歳 実篤
脱字を小さく追記していますが↑、これを見れば、
実篤が、字ではなくて“言葉”を書いていることがわかります。
実篤が大切にしていることは、字の外見的な姿よりも、
その時の瞬間的な感興。
◇◇◇
◇◇◇
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- 2014.11.27 Thursday
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- 17:57
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- by 手作り住所印のお店「寧洛菴」中谷和玄