| 1/9PAGES | >>

広いところと狭いとこ(正岡子規のことも最後に少々)

 

 

 


 

 

 

 

書のまとめ方で、「広いところがあれば狭いところもある」という変化のつけ方は、


とても重要。大事なツボのひとつ。(安売りしたくないことですのでひっそりといいました

 





手紙でも何でも、これを意識しなければ単調になります。






 

 

a.jpg


よひのまにいでゝいりぬるみかづきの
われてものおもふころにもあるかな



高野切第三種より


いい字は心良い。


 

 

 





音楽でいえば、音と音の間の、時間の長短。



もし時間の長さがすべて同じならリズム感は生まれません。




ゲーム「太鼓の達人」も、間隔が違うから楽しめます。

 






また例えば、遠くに山々が見えているとして、


もしその山々が、


きっちり等間隔に並んでいるとすればどうでしょうか。


風情が半減しそう。

 







野球も、



一球目から積極的に打ちにいく人、

何球もよく見てねばる人、さまざまです。



打者・打者の、そういうリズムの変化も、

面白さのひとつだと思います。

 




相撲も、

息をつく暇もないような烈しい攻防が数十秒続いた後、

土俵上でしばらく四つに組むという間(ま)があると、


その強弱のリズムに観客はワァッと盛り上がります。

 

 




さきほどの画像に○印を入れてみました↓。


こうすると広い狭いの変化が見えてくると思います。


初心者のうちはこれが見えそうで見えません。

ベテランでも意識できていない人がいます。





 

b.jpg


 

 




この古筆を見て、ここでは字間の広狭の変化に焦点をあてましたが、


視点を変えた見方はまだまだあります。

 




一文字の中での変化、

墨の濃淡の変化、

筆圧の変化(線の太細)、

文字の大小の変化、

行間の広い狭い、

行の中心の移動、

全体を立体的にしたとして、

もしそれを側面からみたときどう見えるか、など、


臨書をするときは、考えることが本当にいっぱいあります。


こだわることが大切。


ツボが見えていないと野放図な臨書にしかなりません。




こうや‐ぎれ【高野切】
(秀吉よりその一部が高野山金剛峯寺文殊院木食応其に与えられたからいう)古筆切。紀貫之筆と伝える古今集の最古の断片。

広辞苑より




◇◇◇






 

継色紙.jpg


継色紙」の一。

ゆきふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし

 





こちらは、字間の広狭もさることながら、

 

紙面全体の余白の取り方にも、広いところと狭いとこの妙を押し出しています。




つぎ‐しきし【継色紙】
古筆切(こひつぎれ)の名。伝小野道風筆の冊子の断簡で、白・紫・藍・黄などに染めた鳥の子紙を用い、万葉集・古今集などの歌を書写したもの。平安時代の仮名(かな)として珍重され、「寸松庵色紙」「升(ます)色紙」と共に三色紙といわれる。同






◇◇◇





 

榊莫山 杜甫壮遊.jpg

榊莫山(19262010)筆「杜甫詩・壮遊」屏風

26のときの書。


広いところと狭いところの工夫も心地よい。




 

a.jpg

莫山氏小学6年生の時の半紙書
(楷書・かいしょ)



莫山氏は小学生のときにすでにこんな感じ。

齊(はじむ)は榊莫山氏の本名。






◇◇◇





*  *  *  *  *  *  *  *  *  *



正岡子規筆旅中手記27歳.jpg


正岡子規筆「旅中手記」部分 明治26年 26歳


相当な手腕。



センスがいい」という言葉が思い浮かびます。





 


正岡子規絶筆三句.jpg


正岡子規筆・辞世・糸瓜句

明治35918日午前。

絶筆


枕頭で筆を執ったもの。


紙を貼ってある画板を

侍坐していた妹・正岡律(18701941)に持ってもらい、

河東碧梧桐(18731937)が筆に墨を含ませ、

子規は横たわったままの姿勢で(左手は画板の左下に添え)、

唐紙に落筆。


まず中央に


糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」。
糸瓜=へちま


息も絶え絶えの中


痰のつまった佛

といえる子規一流の諧謔に驚嘆。
子規の体には、所々にカリエスによる空洞があった。
子規はそれをガランド也と表現


カリエス【Karies(ドイツ)】
骨の慢性炎症。特に結核によって骨質が次第に破壊され、
乾酪(かんらく)壊死物が膿状に流出する骨の病気。
骨瘍(こつよう)。骨疽(こっそ)。同







その45分後(再び碧梧桐が筆に墨を含ませ)、


今度は左手を画板に添える元気もなく、



左側に、




痰一斗糸瓜の水も間にあはず」。



そして最後にもう一句。




力を振り絞って、







をととひのへちまの水も取らざりき」。
(“と”は脱字に気づき、“水も”と書く前に書き加えた






これらの句を書いた日の翌日・919午前零時過ぎに



子規は事切れる。35歳。




糸瓜の水は痰切りに効く。中秋の名月の晩にとる糸瓜がよいとされる




へちま‐き【糸瓜忌】
正岡子規の忌日。9月19日。獺祭(だっさい)忌。[季]秋






od.jpg


東京都台東区根岸の「子規庵」(正岡子規旧居)


子規庵の庭より。糸瓜や鶏頭たちと建物。


右の部屋が子規終焉の間。

左膝がのびなかった子規は、膝を立てたまま座れるよう、
左側に切り込みを入れた文机を使っていた

 






 

早世ながら、その仕事の密度は人並みはずれている。




世に、有り難屋さんばかりなら、何人いても子規の仕事を凌駕できない。






 

○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を

誤解して居た。

悟りといふ事は如何なる場合にも

平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、

悟りといふ事は如何なる場合にも

平気で生きて居る事であつた。

 


正岡子規『病牀六尺』明治3562







 

 

○病床六尺、これが我世界である。

しかもこの六尺の病床が

余には広過ぎるのである。

僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、

蒲団の外へまで足を延ばして

体をくつろぐ事も出来ない。

甚だしい時は

極端の苦痛に苦しめられて

五分も一寸も

体の動けない事がある。・・・  (同)





◇◇◇




 

・・・・・・第五、 我に俳諧の系統無く又


流派無し、彼は俳諧の系統と流派とを有し


且つ之あるが爲めに特種の光榮ありと


自信せるが如し、


從つて其派の開祖及び其傳統(伝統)を


受けたる人には特別の尊敬を表し


且つ其人等の著作を無比の價値(価値)


あるものとす。


我はある俳人を尊敬することあれども


そは其著作の佳なるが爲なり。


されども尊敬を表する俳人の著作といへども


佳なる者と佳ならざる者とあり。


正當(正当)に言へば我は其人を


尊敬せずして其著作を尊敬するなり。


故に我は多くの反對(反対)せる流派に


於て佳句を認め又惡句を認む。


=以上五ヶ條の區別は大体を盡(尽)せりと信ず。・・・・・・   



正岡子規「俳句問答」明治29






正岡子規筆俳句分類稿本.jpg



正岡子規筆「俳句分類稿本 

明治24年の着手から没年まで。

室町から幕末までの句を分類。

甲乙丙の三種に別ち、甲は季題とその内容、
乙は、主に内容に使用された事物、という感じ。

用紙は半紙を使用。
一冊150枚から200枚のものが66冊。

遂に完成の期なかるべし」と子規。

句の数は約12万!!

 

 




◇◇◇


 




最後に、




子規が盟友・夏目漱石に宛てたあの有名な手紙を引用してこのメモを終わります(『子規全集』第15巻より)。読みやすいように漢字は新字体に改めました。

 




明治34116日付けのこの手紙は、ロンドンにいる漱石に宛てたもの。

 




子規は自分の余命いくばくもなしと察知していたようです。
 


 

僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モ


ナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ


新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃


止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜


ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。


イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白


カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。


僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ


知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッ


タノダカラ残念デタマラナイノダガ、


君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナッテ


愉快デタマラヌ。


若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便


ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)



画ハガキモ慥(確か)ニ受取タ。倫敦ノ


焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。



不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処ヘ通フテ


居ルサウヂャ。君ニ逢フタラ鰹節一本


贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ


食フテシマッテアルマイ。



虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。



錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。



僕ハ迚(トテ)モ君ニ再会スル¬(コト)ハ


出来ヌト思フ。万一出来タトシテモ其時ハ


話モ出来ナクナッテルデアロー。


実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。


僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。



書キタイ¬ハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
 

 明治三四年十一月六日灯下ニ書ス 
           

           東京 子規拝


 倫敦ニテ

  漱 石 

 
(※古白とは、23歳で自死した藤野古白のこと。その古白が呼んでいる

 

 

 

 

 

 

 

 

 





まさおか‐しき【正岡子規】
俳人・歌人。名は常規(つねのり)。
別号は獺祭(だっさい)書屋主人、竹の里人。
伊予(愛媛県)生れ。
日本新聞社に入り、俳諧を研究。
雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句・写生文を首唱、
また歌論「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、
新体詩・小説にも筆を染めた。
その俳句を日本派、和歌を根岸派という。
歌集「竹の里歌」、随筆「病牀六尺」、日記「仰臥漫録」など。
(1867〜1902)

広辞苑より

かわひがし‐へきごとう【河東碧梧桐】
俳人。名は秉五郎(へいごろう)。松山市生れ。正岡子規の俳句革新運動を助け、
その没後高浜虚子と俳壇の双璧。新傾向の句風を宣揚。
句誌「海紅」「碧」「三昧」を創刊。句集「碧梧桐句集」、紀行文集「三千里」など。
(1873〜1937)



たかはま‐きょし【高浜虚子】
俳人・小説家。本名、清。愛媛県松山生れ。二高中退。正岡子規に師事。
「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。
「五百句」「虚子俳話」など。
「俳諧師」「風流懺法」など写生文の小説でも知名。
文化勲章。(1874〜1959)




なつめ‐そうせき【夏目漱石】
英文学者・小説家。名は金之助。江戸牛込生れ。東大卒。
五高教授。1900年(明治33)イギリスに留学、
帰国後東大講師、のち朝日新聞社に入社。
05年「吾輩は猫である」、
次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。
他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」
「三四郎」「それから」「門」
「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」
「道草」「明暗」など

(1867〜1916)






oc.jpg

東京都台東区根岸の「子規庵」玄関(正岡子規旧居) 






oe.jpg

正岡子規記念球場(東京上野)



 

 

◇◇◇




はや10月ですね。

 

 

 




鰯雲日和いよいよ定まりぬ 虚子





 

鰯雲.jpg
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イワシグモ鰯雲いわし大漁の.jpg


 

 

 

 

 

 

 

 

鰯雲イワシグモ秋の空高濱キ.jpg

 

 

 

 

 

 

 

いわしぐもたかはまきょしマ.jpg
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・

人生は何事中島敦『山月記』.jpg







 



和玄メモ「余白




 篆ゴム印(てんごむいん)の「和玄堂


篆刻住所印「
寧洛菴(ネイラクアン)」

 

 

 





広告



        

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2013 >>
        

profile

手作り住所印のお店「寧洛菴」

手作り住所印のお店「寧洛庵」はこちら
あなただけのオリジナル住所印をお作りします。

「寧洛菴」は、日本で唯一の篆刻住所印専門店です。

お届けまでの日数は、現在約60日間いただいております。《誠に勝手ながら、多忙につき暫く休業致します(受注およびお問い合わせも休止させていただきます)。再開日は未定です。誠に申し訳ございません》

entries

categories

archives

        

スポンサードリンク

        

links

search this site.

others

mobile

qrcode