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寧洛菴姉妹店・「“篆ゴム印(てんごむいん)”の和玄堂」(その2)〔2012年4月8日オープン予定!〕


 以下、「その1」からの続きです。
 


市販のゴム印ではちょっと物足りないなぁ〜(-_-)……
(誰よりまず私自身が使いたいと思っているものを作っています。
市販には、私自身が使いたいと思うようなゴム印が残念ながら本当にどこにもありません
)  


でも、篆刻印はちょっと大仰で手が出ないしぃ…… 

それに、なんで楷書が通行体の今の時代に、

あんなにどれもこれもおんなじような

全く読めない篆書の印ばっかりなの?……


という方に自信をもってオススメします。


このページで偶然出会ったことも何かのご縁ですね(^_^)。


「印章」→「篆書」というように、パブロフの犬みたいになる必要はありません。進歩的に、楷書・行書・草書・平仮名・漢字かな交じりの印をもっと作るべきだと思います図像・肖生印も印章であることに変わりはありません。西洋には紋章印がたくさんあります。示信の具であり得たらすべて印章です〕。
そもそも、印章が生まれた当時の大昔の人はその時に自国で通行していたそのままの書体を印に使っていたわけです。ところが、通行書体が篆書でない時代になっても印には篆書が使われ続けました。
確かに、反転文字を印面に字入れする場合、篆書のような水平でさらに左右対称に構成されることの多い書体は、楷書や行書や草書や仮名よりもはるかに布字しやすい。また篆書は字形も楽しかったり、楽しくデフォルメできたりします。そしてまた、一見どことなく権威がありそう。
でも・・・ 普通、篆書って読めないし、今の時代には馴染まない。金文にない文字はどうやって造るのが正しいのか、とか言い出したり、ちょっと間違ったことをするとごちゃごちゃなじられたり・・・・・・
だったら、ごちゃごちゃ言う前に、もっと、今通行しているみんなが日本で使っている今の文字・今の形式で彫ったらいいやんと感じます。なんでアカンの? ひょっとして、読みやすいものを見下げてる? みんなが例外なく日常生活で毎日使ってるのに。。篆体を彫るから篆刻?そもそもこれってホンマなの?
印章界の「言文一致」的な運動が次第に起こってもいいようなものです。かつて、書き言葉と話し言葉に距離があることを甚だ不便に感じた先人たちが、苦心して口語文を磨いてくれた結果、様々な細かい感情を文章でわかりやすく表現できるようになりました。〔
二葉亭四迷1864-1909)山田美妙1868-1910)が実践し、尾崎紅葉1867-1903)が口語文体に磨きをかけた。二葉亭四迷が坪内逍遥(1859-1935)のアドバイスによって試みた『浮雲』が言文一致体の先駆。また、正岡子規(1867-1902)が晩年に病床で口述筆記したことが(子規が語る言葉を家族らが書き取った)、図らずも口語文体を作り上げる大きなきっかけになった
普段、漢字かな交じり文や楷書や行書を使って生活しているのに、篆刻になったら条件反射みたいに金文や篆書って・・・ 時代がストップしすぎちゃう。 使い道のないような巨大な印面に篆書で何か彫ってても、もはやほとんどの一般人に見向きもされないと思います。スルーされるだけ。篆書で彫った一風変わったようなものだけが芸術ではありませんよ。文化は複雑化より簡略化を目指すべき。またそうするもの。中国で顕著ですが、篆書の印はオモロイこと競争みたいになっています。
普通に楷書とか漢字かな交じりで彫ってもいいやん。前に、「どうせオモロイことをするんなら、ここまで突き抜けなければ」というような印をあるところに載せてしまったことがあります(^^;)。だいぶ後にその観念的な部分を、違う図版を使って和玄メモにて補足はしましたが・・・ 
まあとにかく寧洛菴の住所印は、誰もが読める文字を石に彫って、そのような印章文化を様々な人に広める先ず第一歩の試みでした。読み間違えることが絶対にあってはならないものを作る方が、読めなくてもいい印をつくるよりもはるかに気を遣います



また、「寧洛菴(ねいらくあん)」や

今回の「和玄堂わげんどう)」ともややタイプの違う、

同じ「印関係」の、ちょっとしたネット店舗を、

いずれまたオープンしようと考えています。



今回の「和玄堂」と同様、何年も前から構想を練っているショップです。
頭の中でずっと飽きていないので、商品として形にできればなあと考えています。
一人稟議・一人会議に通りました(笑)。独立して仕事をしている者の特権です(^_^)v。
それなりに時間はかかるし勇気もいりますが、起業して、
自分自身が「あったらいいな」・「ほしいな」と思うものを作ったら楽しめますよ。
人に邪魔されると人生の大切な時間が空回りします。
自分には人の感性・感覚に合わせている時間の余裕がありません。
かかえきれない夢を形にしていくことで一杯いっぱいです。
寧洛菴を始めてから、時間の空回りを全く感じないようになりました。
自分の中に濃密な時間が流れ出した瞬間。
何のしがらみもない、日々充実した感覚の中でずっと構想を練っていた和玄堂、
この度ようやく形にできました。
さまざまな準備にかなりの時間がかかっています。


去年の夏頃、来年中にはオープンできそうという旨を書こうと思いましたが、
来年のことをいうとオニが笑いますのでやめておきました。
かねてからの目標のひとつが叶い、人生ようやくエッジがきいてきたな、
ますます楽しくなってきたなと感じています。
とにかく僕は自分の目で見ることができる、
先の小さな光をめざして脇目も振らず前進するのみです。
今まで遠回りし過ぎた分、ちょっとしばらく直進で行きます。


次の新しいショップのオープンは、
何年先か、
時期はまだまだ本当に未定ですが、
ショップ名はもう決めています。
すでに登録商標です(ありそうで日本にひとつしかありません)
とはいえ、
準備を始める時期もまだまだ未定です(^_^;)


 「寧洛菴」や「和玄堂」と同じく、
まだ誰も本腰を入れて取り組んでいないタイプのお店です。

きちんとした、
丁寧・繊細なものを今のうちに
自分で造っておきたいと思います

素人・プロ両方に通用するものを目指します。



僕が興味のある対象は、まだ誰も本腰を入れて取り組んでいないこと、と、

当たり前ですが、自分がこれは面白い!
興味をもつことができた仕事、です。
今、この三店のことにぼくの興味のほとんどが向かっています。
印の世界をもっともっと面白いものにしていきます。
少なければ則ち得、多ければ則ち惑う」(老子)、
余のことに今はほぼ関心がありません。
というより興味を持てません。食指が動かないんです。
自分が一番質よく生育する土壌をようやく見つけた感じ。

そして、

わたしが造るもので多くの人を
笑顔に出来たらいいな、と考えています


今まで散々芸術に散財してきた中で、
この三種類に関しては、あくまで自分の中で、
おもしろいと感じることができています。

年中弄石”の生活をしていても、
それでも飽きることが
全くない篆刻(言うまでもなく篆刻には書の技術や知識が必須。書線の機微の理解が刻線に生きてきます)ってすごいな、
と思います。

篆刻家はだいたいみんな変わっていますが
篆刻家同士がお互い変わっていると思うのだから余程ですね。近現代の日本の篆刻では、時代的な面で考えても北村春歩〔きたむらしゅんぽ1889-1960〕がけっこうスゴイのではないかと感じます)、
そんな一筋縄ではいかないカワリモンたちを惹きつけてやまないのだから、
「篆刻」というものはやっぱり魅力的。


多くのことは、
先人の素晴らしい遺作の数々先人の手紙・書画・印譜・古文化財
直に触れることによってそこから学びました。
きょうびの同時代人からは、変な影響を受けないよう
努めて身を守るようにしてきました。
習いたい・この人ちょっとオモロイかも、
と心底思える人がいないから、独学です(いつのころからか、周りのことはもういいかな、と思い始めました。昭和生まれの同時代人の書や人柄にふれて、心の琴線に触れることがほとんど無くなったからだと思います)。


自分の技術がまだまだということは十分に十分にちゃんと得心しています。
書や篆刻が甚だ空恐ろしい芸術であることも多分わかっています。
が、
技術より大切なものを失うことが
自分にとっては何よりも恐怖。人生は一回しかないし。。
世の指導のほとんどは、人の個性をじわじわとぎ落とし、
自分の取るに足らない陳腐な感覚をじわじわと人に加してしまうこと。
格闘技を習ったボブ・サップがどれだけ無惨な格闘家になったことか。。



我思古人がぼくのモットー。


そもそも「稽古」とは、

(いにしえ)を(かんが)えること



古人の遺作に耳を傾けることで、
多くの“大切なこと”をじわじわと教わりました。

先人の確かな書の遺品に先導してもらって
生きてきたようなものです。確実にそう思います。



先人の書には何度か「感動」という得難い経験をさせてもらいました。
これからも教わりたいことが山ほどあります。

若いときに、もしそのようなものに散財していなかったとしたら・・・・・・
考えただけで本当に恐ろしく感じます。

ただ、「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」(『風姿花伝』)。

本当の秘事や本当のコツは、古人の遺作にも本にも書かれてありません。

ごちゃごちゃ話している、ごちゃごちゃ聞こえているものの方が、
実は空虚なんです。
あるいは「古人の糟粕(そうはく)」とでもいうのかな。

音はするけど、何の実体もない音。
サイモン&ガーファンクルの「THE SOUNDS OF SILENCE」(静寂の音)ですね。
「・・・・・・言葉の形になったネオン・サインは警告を閃かせていた・・・・・・預言者の言葉は 地下鉄の壁や安アパートの廊下に書かれている・・・・・・」。

 


古人は、本当に大切なことや本音みたいなものはごちゃごちゃ露骨に書いていないんです。
本音はごく短い一文や手紙の中の一文だったりしますね。
真剣に真剣に考える者にだけちょっとだけこっそり微笑んでくれたりします。

知る者は言わず、言う者は知らず」(老子)・・・・・・

また、技というものには霊的な部分が多分に含まれています
同じものを同じ材料で作っても「この人の技は何かが違う」と感じる時があります。
結局、口伝の家であっても秘事は各人が自分のやり方で構築した方がいい、
していくべきものだと思います。
『風姿花伝』には、
「秘事を知っている者であるということすら、人に知られたらアカンよ」
と書いてあります。


中川一政がいうように、
人のパレットは自分のパレットにはなりません
(人の技法は自分の技法にならない)。


救いは、時代の淘汰を経て残ってきたものは嘘をつかないということです。
ハッタリでない者のうち、
ずば抜けた者だけが永く書史に名を刻んでいます。

清時代の金農(きんのう、1687-1763の、
あのような(一見)特異な書がなぜ残ってくることができるのか・・・・・・

こういうことを考えることがぼくにとっては楽しいこと。

皆が認める名品も、
残ってきて当たり前のものとしてもちろん大好きですが、
?がつくものもけっこう好き。
金農は、ぼくはちょっと本気で「未来からの使者?」と思うほど、
その進取の感性には長年心底参っています。
金農の真跡「手紙」を見てもそのテクニックは凄まじい。
見せないテクニックが散りばめられています。おそろしい人。


そしてまた、
ちょっとマニアなことをチラッと言ってしまいますが
自身の様々な書に“マニエリスム”を取り入れた
もしかしたら最初で最後の書人と言えるのかもしれません。

ぼくはそう見当をつけています。
ひとりで書史を再編成してみせたのだと睨んでいます。
本当にビックリです。
形に目をくらまされたらわからなくなります。
実はその“方法”にこそさまざまなヒントがあったのです。

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」(芭蕉)です。

 


書史に金農(金冬心)がいなければ
書の可能性というものに関する自分の興味は半減すると思います。
まさに「無法の法」というきわめて次元の高い法を持った奇才。
どこまでも繊細でどこまでも自由に、
そして時に大胆に、書に遊んでいる。

(※マニエリスム・・・美術史上、ルネサンスからバロックへ移行する時期の誇張の多い技巧的様式。ティントレット・エル=グレコなどに見られる


多様なものを認めてきた柔軟な心を持った先人たちに本当に感謝します(^^)。

近現代人で、
「このアーティスト・この人ちょっとオモロイかも」と感じた人は、
金農のことが気になっている人だったりします。

書の調べという和玄メモにも書きましたが、
今のところ、金農(金冬心)以上のおもろい感性を持った
書人や文字に出合ったことがありません。
自分にとっては大事件の書人伝世している金冬心の遺作のほとんどは贋作です。真正作はごくごくわずか)。

 

すべてが何かのパロディのようで、
始終 人を食ったような態度の書人ですが、
何か途方もない可能性を提示しているように感じます。

金農(金冬心)より後、書の時計の針は、
まだカチッとは進んでいないとあくまでぼくは思っています。


“書”は、歴史的にはその伝達面やスピード面をたくましくする方法として、
先人達が必然的に“活字”を生み出したわけですが、
そうなったとき、
人は手書き文字らしさをアピールするために、
以前よりも一層余計に手書きらしさを強調しようとします。
つまり活字とは対極の表現を“書”に求めるようになります。

実際、先人達はみんな苦心してそのようにしてきました。
今の書壇の書もほとんど全てがその延長
(書のオブジェ化です。陶芸などでもこれは見られます)。

が、
金冬心だけは違う方法で急所をとらえました。
“活字”を書作の栄養にしたんです。
活字が生み出されたとき、
活字が古典楷書を栄養にしたように。

要するに冬心は“活字”をヒントにして
新時代の楷書を再構築してみせた、
ということです。

冬心のこの一面だけを見ても、
あくまで僕にとっては大きな大きな衝撃でした。
書に感じたことがある数少ない衝撃のうちのひとつ。



書と活字が手を取り合った姿。「半書半活」です。



これほど端的に時代性を救い上げた書
それ以降出現したでしょうか。

まさに「俗語を用いて俗を離れた」(与謝蕪村・離俗論)ような書。

冬心の書が今なお最先端だと思う所以のひとつです。

手書きのよさをほんの少し残しながら、
他の余計なものをぎりぎりまで削ぎ落としているところは、
本当に心憎いまでの都会的感覚。



活字の席巻が事実として進行している世の中、
活字を抜きにして文字を扱うことはできません。
今後どのように書の時計の針を進めるのか、
それは冬心の様々な“方法”にヒントが隠されているように僕は感じます。

現代的というと墨象作品が現代的に見えるようでいて、
その美意識や深度は古代の山水画の用墨には到底及びません(>_<)。
もはや袋小路に入り込んでいます。
多くは表面的にただガチャガチャしているだけで、
造形的にも観念的にもなんら新しい魅力を感ることができません。
書壇はガラパゴス化しつつあります。
現代の書道界のどこに魅力があるのかさっぱりわかりません。
(会津八一や高村光太郎のような人がいた時代以降、〔深度という視点では〕ほとんど進化していないような・・・)


あるいは昨今の、
一見現代的に見えてしまいそうな
安易に前衛的な大きな字(多くは、技術的にも観念的にも本当にその中味に乏しい)、
多くの目にはややもすると
現代的なものに見えてしまうのかもしれません。
しかし、
すでに400年ほど昔の
張瑞図ちょうずいと、字長公、号二水、1570-1641)が
天地数メートルの大迫力の巨大な幅(大粒で多字数。粒立った書線)を
ものしていて(美術館蔵の一幅を美術館にて一回、個人蔵の一幅を床一面にひろげて直に二回、計三回実見したことがあります)
誰も全くかなっていません。多くはとにかくただむさくるしい。
昭和中葉、
海外のビエンナーレで
日本人の現代書がその物珍しさによって
評価されたときからおかしなことになってしまいました。
歴史はそうなるべくしてなったものですので、
○○だったら・・・・・・ という話をしたところでどうにもなりませんが、
その時もし張瑞図が生きていて東洋の代表として出品してくれていたら、
以降もっと質のよい洗練された大字が、
後進によって構築されてきたはず。
張瑞図は書の将来を予見し、
次第に「細工もの化・ただの大味化」して行きそうな
書の世界を想定して、
あらかじめその落とし前をつけておいてくれたように僕には見えます。


昨今のような大量の紙と大量の墨をむやみやたらと浪費する弊風はけっこうもったいない。
細楷(小粒の楷書)からちゃんと出直したほうがいいと思いますよ。
小さな字を書いたら別人のように下手とか、痛々しい。
こういう御仁が本当に多すぎ。
ぐちゃっとした作品とかはいい加減ほんとにもう見せてもらわなくていいから
もっと普通のことを普通にできるようになってやぁ、
と心底思います。

書は、普通の字を普通に書くのがほんとに一番難しいのですが、
それを書ける実力のある人がなんでこんなに少ないの。

身近なものをおろそかにしていると身近なものに足を取られます。

以前の和玄メモで明代・董其昌(とうきしょう、1555-1636)の手紙に
感激していることを書きましたが、
董其昌本人は手紙についてごちゃごちゃ語っているわけではありません。
ある日にふと書いた手紙一通で、
数百年後の僕を、
確かなテクニックと
ずば抜けた気格の両面で
ゾクゾクとさせてくれる。(※董其昌・・・明の文人。字は玄宰。号は思白。官は太子太保に至った。詩・書・画に通じ、文人画を絵画の最高の様式として南宗(なんしゅう)画の名を与え、書は行草を得意として一家をなした)

僕は取りも直さず、
董其昌の、
近現代人の誰よりも真摯で、いけてるその姿に感激しているんです。

“書”という芸術の醍醐味を僕が感じるのは、
ほとんどその一点に尽きます。
本当の教育がここにありました。


うなる”というのはまさにこのような芸術に接したとき。

そして、このとき
自分の精神力・技術力の未熟さを実感せずにはいられません。
これは人に言葉でいちいち教えてもらうようなことでありません。
師が後進に頭ごなしにあの本はいいとかダメとか
あの書はいいとかダメとか言ってしまっては
自分で何も考えない人間になってしまいます。
僭越にもわざとバカの壁を他人に築かせてしまう
師匠がけっこういるんですね。これは本当にかなり質が悪い。
いいわるいは、本人が様々な本や書を見比べながら、
次第に自分自身で判断できるようにならなければなりません。
玉と石を判断するのは自分の頭です。
多種多様な見方を身につけなければ次に人を指導できるはずがありません。

読書にもよくある話ですが、
例えばある人の評論で一部分でも気に入らないところがあったら、
その人の本すべてを読まないとか、そういう極端な人が多々いますね。
鋭い箇所があれば他に応用できるかもしれないのに。
誰にでも誤断はあるんだから、大目に見たらいいのに。
映画でも同じで、
どんな映画にでもびっくりするような神がかり的な映像があります。

再び『風姿花伝』の一節を引いてみます。


 


……


そもそも、上手にもわろき所あり。


下手にも、よき所必ずあるものなり。



……(中略)……


いかなるをかしき為手(へたなシテ)なりとも、


よき所ありと見ば、上手もこれを學ぶべし。


これ、第一の手立なり。


もし、よき所を見たりとも、


我より下手をば似すまじきと思ふ


諍識(情識・自分勝手な慢心から生ずる争い心)あらば、


その心に繋縛せられて(束縛されて)、


我がわろき所をも、


いかさま知るまじきなり。


これ、即ち、極めぬ心なるべし。……





戻しますが、
好意をもった人にはびっくりするほど極端に染まっちゃう。
その人が書く文章や発言はこわいほど鵜呑みにしてしまう。
書風も気持ち悪いぐらい同じ(-_-)。

また、
個性の強い自分の書を後進に真似させることが
罪深いことだと師匠は気付かないのか。
クセの強い字を真似させて(けっこう悪趣味)儲けて満足しているのは、
人よりちょっと字の上手い、ただのお調子者が高じてしまった状態かな。
そんなのは書の普及でもなんでもないと思います。むしろ後退。
周りは名状しがたい気持ちでその人たちを見ています。

僕は無言の董其昌の手紙から、
書にとって大事なことのほとんどすべてを学びました。
いつの頃から普及してきた手本というようなものとは
また違うところに大事なことが潜んでいます。

そしてそれは各人が人の背中をみて、
自分の視点で感じとるものだと思います。
きょうびなら「人の背中の見方」とかいうハウツー本がありそうですね(笑)。

戻しますが、和玄堂の「楷書」印の多くは、
金農(金冬心)の書をモチーフにしています。
金農の書は、毛筆で小気味よく活字を凌駕、
あるいは小気味よく活字に蹴りを入れることができる可能性を多く含んでいます。

隷書に平仮名を交ぜた印(新春を寿ぎ謹んでお慶びを申し上げます」)は、
金農の手紙文字の雰囲気をほんの少し参考にしています。

和玄堂は、
とにかく先ず自分自身がこの世にあったらいいなと思う印を作る、
それを念頭においているショップです。
そしてぼくの思いが少しずつ静かに誰かに伝わればいいなと考えています。

余談ですが、
金農と不思議な縁を感じたことが
20代半ばから今まで数回ありましたので、
甚だ僭越で本当に勝手ながら、
ぼくを時間空間を隔てたごくごく小さな分身の一部分として
選んでくれたのかな、と勝手に感じています(^^;)。半ば冗談ですよ。

ところで、なぜ自分は書の中でも手紙というものに興味のほとんどがあるのか・・・
それはやっぱり、「機能的だから」です。
そして、書の最後の砦は
手紙しかないと感じ続けています。
(文字にあまり関心のない人が、書のすばらしさを本当に認識できる機会は、
普通にきちんと読めて、かつ美しい手紙に邂逅したときではないでしょうか。
今はどんどんそういう機会が少なくなってきています)

あくまで自分は、手紙を書ける人になりたいから、
美術的・芸術的なものにかねがね年中散財しています。
それは物質というより、
空気感・あるいは“気”を買っているんです

10代後半から美術品・工芸品に人一倍関心のある
ちょっと風変わりな若者だったため、
よく人から「わからない」と言われましたが(^_^;)、
ぼくは「そのようなものからインスピレーションを
得ようとしない書人がホントに、わからない」。

まあ「笑而不答・笑いて答えず」(李白)です。
もういいんです。解らない人には何を言ってもムダでした。

若年からの興味により、
知らず知らずのうちに不思議な眼力を手に入れていました。
もちろん、笑えない痛い失敗も数回あります。
まあそれも眼を高めるための授業料。
高名な学者のご著書に、
「えっウソでしょ?」というような
箸にも棒にもかからない
偽筆が掲載されていることがあり、唖然とすることがあります。
偽筆中の最低ランクなのに。
真筆と長く暮らしていたら0.5秒で真偽がわかるのに、
そういう道を歩んでいないタイプの学者には
その書人の用筆の機微や足音がわからないようです。

もちろん、自ら書を徹底的に書くという行程もとても大切。
書かないよりは書いた方がよいということは言うまでもありません。

脱線つづきですのでそろそろまとめます(^_^;)。

えー、手作り住所印のお店「寧洛菴」をオープンするときのコンセプトは、
100人(あるいは千人)いたら
2人ぐらいに共鳴していただける商品を
でした。

ちょっと難しく言うと「以待知者看」です。

心に余白と潤いそして柔らかさがあり、
微妙な機微が解る多くの方々とのステキな出会いが沢山ありました。

(寧洛菴の受注制作印は、現在、ご用命いただいてからお届けまで約二ヶ月間いただいております。手彫り住所印制作は、決まった同じ形をいくつも作るタイプの工芸と違い、また仕入れた商品を横に流す商売とも全く違う、百人百様の住所氏名をオーダーメードで甚だ手間をかけて制作するタイプのものですので、すぐに納期を縮めることは不可能です。価格や納期に納得いただける方のみご注文下さい)


今回の篆ゴム印「和玄堂」のコンセプトは、
100人いたら15人が欲しくなるような商品を作る”です。

和玄堂の商品は当方口座〔ゆうちょ・三菱東京UFJ・三井住友銀行〕へのご入金確認後、一週間前後でのお届け〔到着〕となります。あらかじめ御了承ください)



そして、今構想中の新しいお店(オープン時期〔準備を開始できる時期さえ〕は本当にまだまだ未定です)は、
100人いたら25人ぐらいが興味をもつような商品にしよう”です。


とにかく先ずは篆ゴム印の「和玄堂」、
「寧洛菴」と共に
これから少しずつ少しずつ育てていきます


「寧洛菴」をオープンして丸五年になりますが、
オープン当初に思い描いた目標・イメージにだいぶ近づきつつあります。
「和玄堂」も、自分の中での目標に向けて、精進していきます


篆刻住所印販売(「寧洛菴」)という、
普及するのが甚だ難しくて険しい道をまず最初に歩みました。
これ以上魅力を伝えるのが難しい道は無いと思っています

(住所印制作がずっと続くのはけっこう大変ですので〔半端なく神経をすり減らします〕、
今後も時々寧洛菴の受注を休止させていただきます。
「寧洛菴」6、「和玄堂4の割合で仕事をしていく予定です)




新しいデザインのアイデア・おもしろいアイデアは、
温泉のように頭の中に無数に湧いています(^^)。

四十〜五十案(てんごむいん用)
すでに印面に布字(字入れ)をしてあります。

随時気が乗ったときに篆刻し、
しばらく時間をおいてその作ったものに
飽きなかったら数印ずつ新商品として追加していきます。

世間に無いような空気感漂うハンコの
オンパレードにする予定です。
目下の目標は100種類のラインナップ。
とにかくまず自分が一番楽しみます。


足るを知り、無駄にバタバタしないで静謐に過ごしていると、
脳にストレスがたまらず、アイデアがぽんぽんと浮かんできます。

“幽意閑情”の心持ちで暮らせると、
それ自体が最高の薬になり、ますます楽しく仕事ができ、
周りに楽しさのおすそ分けもできます。

ただ、あくまで自分がそうというだけで、
人それぞれで考え方は違うし、他の人の人生のことは何もわかりません。
自分自身は、自分の思い描いた人生を、
自身の方法・自身の責任で構築するだけです。
そうすると、人材の使い方・育て方に不信感・辟易感をもたなくてすみますね。
周りが英断をできないなら、自分で英断を下しましょう。
夢がある人、思い切って自分で何かしてみませんか。
努力3、才能3、そして環境 4。オ
モロイやつが多数の平凡に屈服している姿を見るのは見るに堪えません。
日本の組織の体質って、人材を人員にしちゃうんですね。あぁもったいない。。そうこうしてるうちにホントに船が山に登っちゃう。。
周りのイメージに合わせた人生ではなく、自分自身のイメージに合わせた人生を歩みましょう。収入を得るシステムは自分で構築したらいいやん。ぐずぐずしてたらそのまま馬齢を重ねるだけかも。他人をあてにしてはいけません。道は自分で切り開くもの。自分の切り口で物事を考えましょう。
 

どこかの人間が書いた陳腐なハウツー本とか買うよりも、行動です。
本来、世にあふれるハウツー本なんて、
人の数だけあっていいようなものですね。自分は自分でしかないんだから。
「とにかくがんばれがんばれ」と書く人もいるし、「人生に踊り場は必要」と書く人、「がんばらなくていいよ」と書く人などなど、様々です。ぼくにはよくわからないし、そんなのには興味もありません。

自分は、「自分にとってこれはオモロイ!」と思うことをするだけです。

ぜひそっとしておいて下さいませ
さまざまな人からいろいろな仕事の話が度々ありましたが、今の制作を一人でこなしながら、さらに余のことにも質よく力を入れるのは今の私にはちょっと無理です。心込めた印をお届けすること以上に大切なことはありません。寧洛菴の印に嘘をついては本末転倒。…一兎をも得ずになっちゃいます。量より質。無思慮な早さより美しさ。余分な宣伝はちょっとこわい。情熱を傾け始めると徹底的に凝るので他にあまり目が行きません。寧洛菴と和玄堂と次の店の未来に目が行っています。この三店に情熱を傾けます)。


今まで多種多様な古書画や、
多種多様な古道具・工芸・雑貨に実際に触れてきましたが、
それらから学んだ、
質感の感覚・感性をやわらかく取り出すことにより
今回の商品ができました。
誰かに師事していたり、
どこかの流派や協会に属したりしていて、
何か邪魔くさいシガラミがひとつでもあったとしたら、
このような商品を生み出す機会を逸していたとホントに思います。
自分には対外的なしがらみはゼロ。
たくさんの方に使っていただけたらなと思います(^^)。

 


書も篆刻も、僕たちの上の世代の方々によって、
もうかなりのありとあらゆる足跡をつけられてしまっていますので、
若者が今までと同じような空気が流れる土俵に入って、
またおんなじようなグチャッとした漢字や、
ワァーきれぇ〜っていうお決まりのおんなじような
読めないような仮名を毎回書いてバタバタしたりって、
どうなんだろう。。
日本の景気が高度によかった世代の方々のワダチを
また歩んだりするのはちょっとズレてると思います。
あるひとつのシステムとしての
書の一時代が終わったのが実情ではないのかなあ。。
今の若者世代にはもはやつまらないかなあと。
多くの新卒者があぶれているのに、
これからの書壇が今までのように素直に機能するのだろうか。。
電機などはどんどん新しい物を研究開発するのに、
書は師風をゆるく墨守するだけだったり、
じわじわ展覧会かぶれして
みんなとおんなじような「書になりすぎた、いかにもな書」を
書いちゃったり……。
審査員に受けるようなものも少しは大切かもしれませんが、
すぐ隣にいる、世間の人一人一人に書で感動を与えていくことの方が
より大切ではないでしょうか。これが書を守るということではないのかな。
これってほんとにめちゃくちゃ難しい。


もし50年後とかの書展にも、
今とおんなじような作品がいっぱい縦横に並んで内輪鑑賞しているとしたら。。
想像しただけでゾッとします。
内と外がこれほど隔絶した世界も珍しい。
人とおんなじようなことしてる場合じゃないですよ。
人のまねばかりしてる場合じゃないですよ。
塗り絵してて楽しいの?
まあこんなこと、余計なお世話ですね。
各人がしたいことをしているならそれでいいですよね(^_^;)。

ぼくは、何か未開の地は無いか、これはけっこう難しいことですが、
ちょっと頑張ってこれから開拓できたらなと思います。
先達の人生をトレースするだけじゃ自分はつまんない。


さっきから何ごちゃごちゃ言うとんねん、って感じですかね(^_^;)。。

とにかく、人間、明日どうなるか全くわかりません。
「今この時!」という気持ちで、
「今言いたいこと」「今やりたいこと」を行うこともまた一興です。

 

話は矛盾しますが「和玄堂」の新商品の時期はまだ未定です(^^;)。
他にもすぐにすべきことが山のようにありますので(^_^;)。
書くならすぐに形にできますが、
彫るのは本当に比べものにならないほどの手間と時間を要します。
随時、気が乗ったときに形にしていきます。


手で“気”を込めて彫った刻線にしか

どうしても出ない風趣がありますので(←ホントです)



ぼくは手間を惜しみません。
自分自身が一番わくわくしています。
皆様、何とぞよろしくお願い申しあげます。







 

ep.jpg

↑「和玄堂」の印
何かにやわらかく使えそうなものを思いつくままに
いくつか彫りました(^_^)。


手彫りにしか出せない
ほんとにある! 

印章文化は
ナント5,000年以上!
携帯が普及してたかだか20年。

「和玄堂」がゴム印を脱構築します! 

使い方は人それぞれ無限大!

“篆ゴム印”ひとつで心が和む!

“てんごむいん”ひとつで
手紙が変わる








 

dh.jpg
空き箱などで台を作ると、すぐ持ち運べて便利です。
家族みんなで使えます(^_^)v。



el.jpg

ラックがあるとなお便利。
弊店では、スタンプパッドやクリーナー、ラックは扱っておりません。
販売は「篆ゴム印(てんごむいん)」のみです。





ae.jpg
デザインの著作権は“和玄堂”に属します。
Copyright (C) 2012 Wagendo. All Rights Reserved.


和玄堂(登録商標第5475813号)

↑「篆ゴム印(てんごむいん)」↑


(“篆ゴム印”中谷和玄の造語です。
「篆ゴム印・てんごむいん」は
和玄堂の登録商標【登録商標第5511979号・第5511980号】です



ゴム印は進化した。

”も“篆刻”も“手紙”も“雑貨”もすべて大好きな者が、
ちょっと本気で「ゴム印」を作ると
このようになりましたo(^-^)o


お手頃価格で良質の印影を!


すっきり感を目指しています


画像の印影より実物の印影の方が、よりシャープです。画像はぼやけて見えます)。


また、プロと素人の境界無く「いいな」と
思っていただけるものを

目指します!!

そしてまた、
ビジネスなどのかしこまった場にも捺せるもの、
くだけた場に捺すもの、老若男女それぞれに通用するもの……。
「和玄堂」の“篆ゴム印”は、「寧洛菴」とは違い、
幅広い層に受け入れられるものを目指します。
昔、大規模公募展の篆刻を見に行ったとき、
一般の人々の反応は「なんか大きいハンコがいっぱい並んでるなあ〜……」。
こういうことを同伴者としゃべりながらその部屋はみんなほぼ素通り。
巨大な印面に、誰も読めない金文とかの様々な篆書(てんしょ)。
同じような印のオンパレード。
実用性から掛け離れた大きな印面、
かつどう見てもほぼ読めない時代錯誤のものに
興味を持ってもらえるわけがありません。。
「だから?」で終わります。
一方、書も、書家というのならば、
一般人にも何とか読めて、
なおかつ感激できる書を追求していかなければならないと思います。
それを無視するのはただの怠慢。
昨今のぐちゃぐちゃこすりつけた
読めない書をみると、「だから?」としか感じません。
「書は読めないものと思っていたけど、読めるものがあって、
なおかつその読めるものにこれほど感動するとは」
と言ってもらえるものを追求しなければ、
多くの人は書に目を向けません。
時代に適応できないものは生き残れないと思います。
そして、自分もこういう字が書けるようになりたいと
思ってもらえるような字を書かなければ。
ぼくが、読めなければならない“手紙”というものに力を入れるのは、
そして手紙に関係するものを制作しているのは、
書にあまり興味のない方や、
書の世界にあまり縁がない方に、
少しずつ興味をもっていただきたいから。
手紙を見て、
「文字にはこれほどまで人を感動させる力があるのか……」とか
言っていただいたこともあります。
いろいろな面で自分にとってはかなりうれしいお言葉でした。
書・篆刻を仕事にする者冥利に尽きます。
手紙は、その人のためだけに宛ててひっそりと書くもので、対面の芸術。
当然読めなければなりません
(手紙は安易に公開しないその場二人だけのデリケートな芸術。茶会に似てるかな)。
書の基本は伝達です。
そして、読めるのに、これだけ感動するんだというものを、
一発書きで生み出さなければなりません。
こういうことに腕が鳴らない書家ってどうなんだろう。
ぼくは、感動できる手紙を書人にもらえたら、そのとき初めて、
(その方がたとえ月給取り作家であったとしても)
その方の個展やその方の出品書展に
本気で足を運ぶ気になると思います。
戻しますが、篆刻の陳列を素通りする方々を見たとき、
篆刻も、
プロと素人両方の目に留まるものを目指さなければならない
という気持ちを強く抱きました。
ずっと変わっていません。これからも、追求していきます。




時に用ゆるをもて、花と知るべし。

(時の用に足りるものが花であると理解すべきである)

『風姿花伝』より





dv.jpg


dy.jpg

dz.jpg
ポジティブはんこ、捺して飾ってもいいかも↑↓。
ea.jpg




※ゴムはすべて黒ゴム(耐油)使用です。
b.jpg

 赤ゴム・白ゴム(共に非耐油)3倍耐久力!

赤ゴムや白ゴム使用のゴム印に油性インクをつけるとゴムが溶けてしまいます。


また、耐油・非耐油に関係なく、
黒ゴムは、ゴム自体の耐久性が赤ゴムや白ゴム、
あるいは樹脂印より格段に勝れているため、
シャープな印影を長く保持できますよ。まさにいい事ずくめ。


黒ゴムを扱うと、
販売時に一見少し高く見えてしまうため、商売的には甚だ不利です。
しかも、商品が劣化しにくく長持ちします。

販売する者にとっては何もいいことはありません。
弊店は、お使いになる方のことを第一に考えて黒ゴムを選んでいます。

全てを勘案すると、結局は本当にお得です。





dg.jpg

並べてあるだけでもちょっとしたインテリア

和玄堂の「篆ゴム印(てんご.jpg
文字にうるさい男が造ったゴム印です。随時追加予定。

「日本製」



                         tuejii.jpg               
                  
わしも欲しいのぉ

 




「和玄堂」の商品を5,000円以上お買い上げのお客様には、「顔スタンプ」↓をひとつプレゼントいたします。(5,000にひとつプレゼントいたします。10,000 円以上で二つプレゼントとなります)
 

eb.jpg
日本製
ec.jpg

↑ゴムは赤ゴムです。
油性インクのご使用は控えてください。



「顔スタンプ」は“赤ゴム”を使用しています。顔の表情は6種類↑ございますので、それらの中からひとつお選び下さい。 持ち手(顔スタンプの持ち手はプラスチック製です)のカラーは表情によってそれぞれ違います。

 
 

顔の直径は7ミリです(持ち手は10ミリ角です)。これらの印の原版も、一旦石に彫ったものを使っています。それらの印影を原版にして、「顔スタンプ」を作っています。「顔スタンプ」、使い方はさまざまです。例えば、ハガキに宛名を書いたとき、右下の余白の広さがどうも気になるなあなど、紙面の使い方が気になってしまうことがありますが、そのような場合、空間を補う「補空のアイテム」としてスマイルの印を捺しておくと、余白をちゃんとおさえることができます。 ハガキ表面の左下にも余白ができることが多々ありますが、その余白に捺してもいい感じですよ。また、例えばハガキの裏にサンプル↓のような“黄色”のスタンプパッドでスマイルの印をいくつか捺してから、その上に言葉を書いてもかわいい感じです。




 

ed.jpg

 



もちろん、青色でも緑色でも朱色でも大丈夫です。ただ、“ゴム”ですので、油性インクのご使用は避けて下さいね。とにかく使い方は十人十色ですよその1」へ戻る(今のページは「その2」です)



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ek.jpg










「花」は隷書では本来「芲」の形がベターですが、
現実の一般的な文字生活と、
はんことしての実用性・言葉のイメージを考慮し、
はんこのような字体にしています。
あらかじめご了承ください。
(上段右から三つ目の「花見月」のことです)




月の異称篆ゴム印セットは特製桐箱入り。

「和玄堂」のホームページはこちらから(^^)

「篆ゴム印(てんごむいん)」専門店は日本でココだけ!

 





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手作り住所印のお店「寧洛菴」

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あなただけのオリジナル住所印をお作りします。

「寧洛菴」は、日本で唯一の篆刻住所印専門店です。

お届けまでの日数は、現在約60日間いただいております。《誠に勝手ながら、多忙につき暫く休業致します(受注およびお問い合わせも休止させていただきます)。再開日は未定です。誠に申し訳ございません》

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