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がんばろう、日本。


 


2011310日の夕刊には、


宮城で震度4 東北余震続く 

……地震の規模を示す

マグニチュード(M)は6.8と推定される。

気象庁は福島県沿岸部に同28分、

津波注意報を出したが津波は観測されず、

約1時間後に解除した。

同庁によると、9日昼前に起きたM7.3の地震の余震で、最大規模。……」


とあります。


 




余震”という、控えめな字面や響きは何と冷淡か。


 




翌日の11日に東北関東地方で起きた、

M9.0というとてつもない巨大地震が陸に持ち上げた津波の映像を見たとき、

いろいろな人のことが瞬時に頭をよぎりました。



「今日の春の海はとても穏やかですよ」と言っていた、

福島県沿岸部で働いている〇〇さんはちゃんと逃げたのだろうか、

相馬に実家があるあの子の家族は、

宮城の……、青森の……岩手の……。

 



知人への思いとともに、

みんな同じ人間同士として、

心苦しい気持ちがずっとおさまりません。




今は、現地の状況、被災者の方々の生活、回線、名前情報など、

まだまだ混乱しているときであり、

静かに多くの人々の無事を心から祈っています。

 




自衛隊や警察、消防、医療や電力関係者、

地元の人々やボランティア、

あるいは世界各国の多くの人々が毎日命懸けで働いている……、

「ありがとう、ありがとう」の言葉が絶えず胸にあふれてきます。

 


救助されて家から出てくるときに、

笑顔で元気よく「また復興しましょう」と言ったおじいさん、

「家族を残して死ねない」と、

濁流の中必死で流木にしがみついて奇跡的に助かった男性、

最後まで避難のアナウンスを続けて犠牲になった女性……、

釜石市教育委員会が徹底的な防災訓練を続けてきたことで、

釜石市内の中学生たちは小学生たちの手を引き、

訓練で決められていた場所より

さらに安全な高台へと避難しほぼ全員が助かったこと……、


数字では計れない一人一人のあらゆる人生があらゆる場所で、

時に安堵し、

時に悲嘆に暮れ、

たとえ助かったとしても、

まだまだ明日のことが見えない状況が続いています。

 



生まれてまだ5年ほどしか生きていない幼稚園児でも、

“年長組”として、

“年少組”の前ではしっかりしなければ

という心持ちで強く振る舞っています。


小学生の手を引いて冷静に避難した中学生は、

まさに大人として命をかけて年少の児童たちを助けたのだと思います。

 




また、

健康な人は、

お年寄りや身体の不自由な人に手を差し延べなければ、

その人たちは生きていけません。

寝たきりのお年寄りや認知症などのお年寄りにとっては、

ますます症状が悪化する環境になっています。


一体どうすれば多くの人が助かるのか。


一人一人に何ができるのか。



今こそ皆が一つにならなければ、

復興への道のりは険しさを増す一方になると思います。

 



真冬の寒さ、医療の不足、食料・燃料・衣料などの物資不足、

避難所での精神状態・・・、

すべて予断を許さない状況が続いています。



原発の避難地域周辺には物資が届かず、地獄のようだといいます。


多くの人工透析患者はどうなるのか。

 

 



日本が穏やかだった3月のはじめ、

以前求めた古い古い第二次世界大戦中の一通の手紙を再び読んでいて、

再びいたく心に感じるものがあった矢先の今回の大震災。



世の中の失望と希望、明暗、生と死、死と生……、

日本はいつの時代も絶望の中も希望を失うことなく

復興してきましたので、

私は日本は一丸となってまた必ずさらに強く立ち直ると信じています。

 



その古い手紙は、

女性の書家が、

東京の空襲がまだまだ激しい1945年の5月に、

東京の世田谷区から地方の知人に宛てた一通です。






 



 

 






東京大空襲の大規模なものは1945年(昭和20年)310日未明でしたが、


4月・5月にも大規模な空襲が容赦なく東京を襲いました。

 



手紙は520日に書かれたもので、

その5日後の525日にも東京で大空襲がありました。

 


さらに、

手紙の宛先は、その何十日か後の89日に原爆が投下されることになる長崎。

 




私はこの手紙を開くたびに、

写真や映像で見たことがある日本中の焦土に吸い込まれていきます。



 


 

お手紙ありがとうございます。

空襲の御被害もなく、うれしく存じ上げます。東京はこの頃毎日警報で、昨日も空襲がありましたが、西南方或は西北方の工場、または飛行場をめがけて居る様子でございます。然しいまに私の方も焼かれるのではないかと心配して居ります。

折手本御受とり下さいましたか。実は、「長崎縣有家町」を「長崎市有家町」と書いて出してしまって、後で氣づきまして、どうかしらと心配してをります。五月二十日夜 ……

 





宛名の人物がその後どうなったのかわかりませんが、

この手紙を書いた書家は大空襲の中を助かり、

5年後の1950年に書の本を出しています↓。



 



 

 





当時の壊滅的な状況からも日本は着々と復興し、

産業技術も世界に冠たるものとなりました。


今回の災害時の様子を見て、

世界の人々は日本人の冷静さと品格ある行動に

舌を巻いているといいます。


これから日本は着々と立ち直り、

さらに強く、さらに洗練された国になると信じています。

 



東北関東大震災で犠牲になられた方々の

御冥福を心からお祈りしますとともに、

被災された方々の今後の御無事と

一日も早いご回復を心からお祈りいたします。
















 





























ねいらくあん


 





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