奈良市「法華寺門跡」の会津八一(あいづやいち)歌碑
- 2015.06.09 Tuesday
- 書画メモ
光明宗「法華寺」(ほっけじ)は、
光明皇后御願による総国分尼寺として、
741年頃に創建された尼門跡です。
奈良平城宮跡の近くにあります。
↑奈良法華寺門跡 奥が本堂
↑本堂の屋根瓦
↑法華寺周辺地図
↑法華寺入口 駐車場はこの手前右側 約50台・拝観者無料
ほっけ‐じ【法華寺】
奈良市にある真言律宗の尼門跡。741年(天平13)頃、光明皇后が大和国分尼寺として父藤原不比等の家を喜捨創建したと伝える。総国分尼寺でもあった。現在の本堂は1601年(慶長6)豊臣秀頼の再建。本尊十一面観世音立像は平安初期の優作。法華滅罪之寺。氷室(ひむろ)御所。広辞苑
こくぶん‐にじ【国分尼寺】
聖武天皇の勅願によって、国分寺とともに国ごとに建立された尼寺。正式には法華滅罪之寺と称し、法華経を講じさせ、奈良の法華寺を総国分尼寺とした。同
こうみょう‐こうごう【光明皇后】
聖武天皇の皇后。藤原安宿媛(あすかべひめ)。光明子とも。不比等(ふひと)の女(むすめ)。孝謙天皇の母。長屋王事件後、729年(天平1)臣下からの最初の皇后となる。仏教をあつく信じ、悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。(701〜760)同
もん‐ぜき【門跡】
(一門の法跡の意)
(1)祖師の法統を継承し、一門を統領する寺。また、その僧。
(2)皇子・貴族などの住する特定の寺の称。また、その寺の住職。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、室町時代に寺格を表す語となり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡などに区分して制度化。
(3)本願寺の管長の俗称。同
↑拝観料 (夏の、本堂国宝木造十一面観音菩薩立像特別開扉は、6月5日〜6月10日)
↑国宝本尊秘仏開扉(十一面観音菩薩立像)[明日まで]
御本尊は、国宝・木造十一面観音菩薩立像。
(光明皇后が蓮池を歩かれた姿を写したと伝わる。
光背は蓮の華と葉を交互にする。左手には蓮華を生けた華瓶を持つ。
右足をやや前に出し親指を少し浮かせた遊び足は、歩みだそうとする姿。
長い右手は遠くの人まで慈悲の手をさしのべる様子を写したもの)
十一面観音菩薩立像は、
◆春季(3月20日〜4月7日)と、
◆6月初旬(6月5日〜6月10日)、
◆秋季
(10月25日〜11月10日*秋季の期間は正倉院展に準ずる。秋季には、国宝阿弥陀三尊・童子像も同時公開)
に開扉されます。
↓和辻哲郎『古寺巡礼』
↓同
↓同
↑法華寺 十一面観音菩薩立像
↑本堂
先代の
久我高照(こが・こうしょう、1921〜2011)尼には、ぼくが
20歳前後のときに何度かお目にかかったことがあります。
このブログに書かせていただいている幽玄翁の所用でお伴したときに
お目にかかりました。
今考えるとすごいことだったんだと思います。
当時はあまりわかりませんでした(^_^;)。
↑表札「久我高照」
幽玄翁があんなに緊張していらっしゃるお姿は、
高照尼の御前のほかでは見たことがありません。
ちなみに、
久我高照尼は、女優・久我美子(くがよしこ)氏の叔母さまだときいた覚えがあります。
↑万葉歌碑(山部赤人万葉集巻三 三七八 久我高照尼筆)
「いにしへの古き堤は年ふかみ池の渚に水草生ひにけり」
やまべ‐の‐あかひと【山部赤人】
奈良初期の万葉歌人。三十六歌仙の一人。古来、柿本人麻呂とともに歌聖と称。下級官吏として宮廷に仕えていたらしく、行幸供奉の作が多い。優美・清澄な自然を詠んだ代表的自然詩人。「田児の浦ゆ」の歌は有名。作歌年次736年(天平8)まで。後世、「山辺赤人」とも書く。生没年未詳。同
まんようしゅう【万葉集】
(万世に伝わるべき集、また万(よろず)の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持(おおとものやかもち)の手を経たものと考えられる。東歌(あずまうた)・防人歌(さきもりうた)なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。同
まんよう‐ちょう【万葉調】
万葉集の歌の特色とされる雄渾・直截・切実な表現、雄健な調(しらべ)をいう。賀茂真淵はこれを「ますらおぶり」と呼んだ。源実朝を始め、万葉調の歌人が多数輩出、明治時代に入ってアララギ派に用いられた。同
さて、法華寺には会津八一(あいづやいち)歌碑が建っています。
あいづ‐やいち【会津八一】
歌人・書家・美術史家。秋艸(しゅうそう)道人と号す。新潟県生れ。早大卒。万葉風を近代化した独自の歌風を確立。歌集「鹿鳴集」、書跡集「遊神帖」など。(1881〜1956)同
会津八一が十一面観音菩薩立像を拝んで詠んだ歌を
石碑に刻んだものです。
歌碑は鐘楼堂の近くにあります。
↑鐘楼堂 歌碑はこの写真の右端あたりです。
↑会津八一歌碑
ふぢはらのおほききさきをうつしみに
あひみるごとくあかきくちびる
法華寺にてよめる 秋艸道人
入江泰吉・光枝夫妻が、昭和40年11月3日に建てたということです。
↑八一歌碑・碑陰「昭和四十年十一月三日入江泰吉光枝建之 石工 石田忠一」
(碑陰の文字は安藤更生筆)【碑は、さぬき庵治石。台石は生駒石】
↑安藤更生(左)と八一
いりえ‐たいきち【入江泰吉】
写真家。奈良市生れ。奈良・大和の風物・仏閣・仏像を撮る。
代表作「万葉大和路」「仏像の表情」。(1905〜1992)同
この歌は会津八一の第一歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』(大正13年)に
おさめられています。
法華寺本尊十一面観音
ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
あひみる ごとく あかき くちびる
この歌碑の文字サイズは、
元になった八一の書と同寸で刻されているようです。
↑会津八一筆の歌書(昭和25年頃)と歌碑拓影
(東大寺大仏殿畔の会津八一歌碑建碑式[昭和25年]に列席できなかった八一は、
後日、入江泰吉に、その碑の写真を撮ってほしいと頼みました。
入江がその写真を送ったところ、折り返し、八一筆の半切の書
「ふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる」が
送られてきたようですが、↑この書がそのときのものでしょうね)
↑法華寺 十一面観音菩薩立像↓
会津八一「南京詠草」↓
法華寺本尊十一面観音
観音のおもはゆげにも垂れこめしとばりにせまる旅衣かな
↑会津八一 奈良唐招提寺にて(昭和18年)
↑杉本健吉画・会津八一筆
たびびとのめにいたきまでみどりなるついぢのひまのなばたけのいろ
↑ポストカード「杉本健吉画・大佛殿鹿」(愛知県知多郡美浜町の「杉本美術館」で購入)
↑会津八一 揮毫
↑八一筆安藤更生宛書簡封筒
↑法輪寺 十一面観音菩薩立像
ほうりん‐じ【法輪寺】
(1)奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町三井にある聖徳宗の寺。聖徳太子の病気平癒を祈ってその子山背大兄王(やましろのおおえのおう)らが建立したと伝える。三重塔は飛鳥様式の遺構で、1944年炎上、75年再建。薬師如来坐像・虚空蔵(こくうぞう)菩薩立像は飛鳥時代の木彫として重要。三井寺。御井寺。法琳寺。同
会津八一『南京新唱』↓
法輪寺にて
みとらし の はちす に のこる あせいろ の
みどり な ふき そ こがらし の かぜ
同↓
奈良博物館にて
くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
かげ うごかして かぜ わたる みゆ
↑法華寺
↑会津八一筆
毘樓博叉(びるばくしや)まゆねよせたるまなざしを
まなこにみつつあきののをゆく
戒壇院をいでて 八一
(東大寺戒壇院のこと)
(“びるばくしや”は四天王のうち西方廣目天の梵音)
かいだん‐いん【戒壇院】
戒壇を設けた建物。また、それを含む一区画。東大寺のものが著名。同
かい‐だん【戒壇】
僧尼に戒律を授けるために設ける壇。石などで築く。日本では754年(天平勝宝6)、鑑真(がんじん)が東大寺大仏殿前に設置したのに始まる。同
さん‐かいだん【三戒壇】
聖武天皇の命によって築かれた、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺、筑前(福岡県)の観世音寺の戒壇の総称。同
し‐かいだん【四戒壇】
奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺、筑前(福岡県)の観世音寺、近江(滋賀県)の延暦寺の戒壇の総称。四所戒壇。同
こうもく‐てん【広目天】
(梵語 Vir〓p〓k〓a)四天王の一つ。須弥山(しゅみせん)の中腹西方に住し、西方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、筆・巻子あるいは索などを持つ。広目天王。同
してん‐のう【四天王】
(1)〔仏〕四方を守る護法神。須弥山(しゅみせん)の中腹にある四王天の主。持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天(北方)の称。像容は、甲冑をつけた忿怒の武将形で邪鬼を踏み、須弥壇の四方に安置される。四大天王。四王。同
会津八一『南京新唱』↓
戒壇院をいでて
びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
まなこ に み つつ あき の の を ゆく
[↑きびしさとさびしさの対比]
↑奈良東大寺戒壇院戒壇堂廣目天
会津八一著『渾齋随筆』の「毘樓博叉(びるばくしや)」から少し引いてみます。
東大寺戒壇院には、
この院の名をして天下に重かしめるほどの、
傑作の四天王があつて、
我が天平藝術の最高水準を示すものと、
普く認められて居る。
その中でも、この廣目天は、
何事か眉をひそめて、
細目に見つめた眼(まな)ざしの深さに、
不思議な力があつて、
私はいつもうす暗いあの戒壇の上に立つて、
此の目と睨み合ひながら、
ひとりつくづくと身に沁み渡るものを覺える。
まことに忘れられぬ目である。
やがて此の堂を出て、春日野の方へ足を向けても、
やはり私の目の前には此の目がある。
何處までもついて離れぬ目である。私はこれを歌にした。
この歌を詠んで、どれほどになるか、
もう久しいものであるが、
その後になつて、一つ妙なことが起つて來た。
五六年も前に、ある時、東大寺からの歸りがけに、
飛鳥園の店へ立ち寄ると、
主人の小川君は、あの特色のある笑を湛へながら、
つくづくと私の顔を見て、
どうもあなたは、
だんだん戒壇院の廣目天そつくりの目に
なつて來られましたといふ。
そして鏡まで持ち出して來て、
ていねいにも寫眞と並べて見せてくれたものだ。
↑東大寺戒壇院戒壇堂広目天
↑東大寺戒壇院戒壇堂持国天
じこく‐てん【持国天】
〔仏〕(梵語 Dh〓tar〓〓〓ra)四天王の一つ。須弥山(しゅみせん)の中腹東方に住し、東方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、刀・宝珠などを持つ。持国天王。同
↑東大寺戒壇院戒壇堂増長天
ぞうじょう‐てん【増長天】
〔仏〕(梵語 Vir〓〓haka)四天王の一つ。須弥山(しゅみせん)の中腹南方に住し、南方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、鉾(ほこ)・刀などを持つ。赤身の武神。増長天王。同
↑東大寺戒壇院戒壇堂広目天↓
↑東大寺戒壇院戒壇堂多聞天
たもん‐てん【多聞天】
〔仏〕(梵語 Vai〓rava〓a)毘沙門天(びしゃもんてん)の別称。四天王の一つとする場合、普通この名称を用いる。原語は「広く名の聞こえた」の意とされる。同
びしゃもん‐てん【毘沙門天】
〔仏〕四天王・十二天の一つ。須弥山(しゅみせん)の中腹北方に住し、夜叉・羅刹(らせつ)を率いて北方世界を守護し、また財宝を守るとされる神。甲冑を着けた忿怒(ふんぬ)の武将形に表され、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾(ほこ)または宝棒を持つ。日本では七福神の一つともされる。また多聞天(たもんてん)とも訳し、四天王を列挙する場合には普通この名称を用いる。別名を俱毘羅(梵語 Kubera)といい、インド神話では財宝の神。毘沙門天王。同
↑浴室(からふろ) 法華寺
光明皇后難病者施浴(せよく)の浴室
会津八一『南京新唱』↓
法華寺温室懐古
ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
ながるる うみ を すひ に けらし も
からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
うみ に あきたる あかき くちびる
からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
ひと に すはせし ほとけ あやし も
↑法華寺
↑法華寺
↑法華寺
↑夏つばき(沙羅双樹) 法華寺
↑橋本多佳子(はしもとたかこ、1899〜1963)句碑 法華寺
「古雛(ふるびいな)おみなの道ぞいつくしき 多佳子」
↑法華寺
↑光月亭 法華寺
↑光月亭の中から
↑「光月亭」久我高照尼筆
↑ビロード草 法華寺
↑法華寺本堂
↑スモークツリー 法華寺
↑法華寺
↑法華寺
↑法華寺
「文人愛用味わい住所印ギャラリー・18 歌人・書家・美術史家 会津八一」和玄メモ
「奈良「猿沢池」の会津八一歌碑」和玄メモ
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↓法華寺年間行事予定
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↑
會津八一
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「文人愛用味わい住所印ギャラリー・18 歌人・書家・美術史家 会津八一」和玄メモ
「奈良「猿沢池」の会津八一歌碑」和玄メモ
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奈良国立博物館開館120年記念特別展
「白鳳―花ひらく仏教美術―」
2015年7月18日(土)〜9月23日(水)
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- 2015.06.09 Tuesday
- 書画メモ
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- by 手作り住所印のお店「寧洛菴」中谷和玄