新しいコンテンツ(中庸・標準的な手書き筆文字を徹底的に追究するコンテンツ。書体は誰もが読める楷書・行書・カタカナ・ひらがな)〔その2〕(全5回)

 
 
その1〕からのつづきです。
 
 

“文字を書く”という領域において、
 
 


そのどこに本気の労力を注ぎ込むべきか、


そのどこでどのような切り口にて力を発揮するのがよいか、



どのような形で生かせば

もっとも効果的に人の役に立てるか、



 
と二十年近くずっと悩みつづけ、
基本の研鑽はむろんずっと本気でつづけています。というか基本がもっとも難儀。
力を安易に外に向けず、内に内に抑えることがかなり大切。
20年以上かけて着々と基本的なものを鍛え上げてきて、
今やっとぽこんと芽を出したという感じです。
ひきしぼっていた弓からようやく矢を放ったともいえます。

芽自体も基本の姿をした芽ではあります。余計なものを添加していません
 
 
なかなか決められないできましたが、
 これだ!と直観的に感じるものや本気で取り組みたいと思う対象物に
 なかなか出合えませんでした。(>_<) 

 

今のところ、そのコンテンツを作って世に問うことに、

一番の関心を抱いています。
はたから見ると、よくそんな海の物とも山の物ともつかぬものを作るねぇという、
ちょっと普通はやろうとは思わないことですが、
だからこそ、あるいは後塵を拝するような物事で無いからこそ、楽しめます。
やり甲斐も苦しみ甲斐もあります。やる気もわいてきます

  

 


今回の技能は当方の十八番の領域です。


ゆいいつ、 人よりはちょっとだけ得意なことです。

他の分野では何もかも到底歯が立たない。




人は、往々にして得意分野で足をすくわれますので、

かなり慎重に技を磨き上げてきました。



これがなければ自分には他に何ひとつありません。
なんの取り柄もない、ただの甘党です(^^;)

  

いいかえれば、中庸・標準の、

摩周湖の凪(な)いだ湖面のような)穏やかな文字・落ち着いた文字を
  
手書きで生み出す技能ということにもなりますが、
※当コンテンツは毛筆の文字がメイン。
去年、全日本書道連盟ほか12組織・団体等が、
文科大臣と中央教育審議会長宛に
「書写・書道教育に関する要望書」を提出。
学校教育での毛筆書写の一層の充実などを求めています。
基礎的な毛筆書写に自信のない教員が多いこともあって、
書写教育では充実した指導が行われていません。
甚だ僭越ながら、
文字に自信のない指導者の方にも当コンテンツを
ぜひ参考にしていただきたいと思います


  



そういう条件のものにおいては、

できれば、現代で実質的に最高のものを提示したいとしか考えていません。
でもこれは内証です。
 


このblogに時々出している文字を書くときよりも、

むろんギアをはるかにはるかに上げています。
集中力を爆発させています。



ただ、かなり真剣ですが、肩の力は抜いています。


気負い立ったところが文字に見えてしまうと、

見ている人がしんどくなります。


よく目に入ってくる「力いっぱい頑張りましたぁ!!」みたいな、

抑えることをしらない文字は見苦しい(むろん、そういう書のすべてがいやというわけではありません)。



5の力を、10にも15にも見せようとするのではなくて、

10あれば5くらいにぐっと抑えておきたい。
※これは、わかる人にはわかるし、わからない人にはどれだけ説明してもわからないことではあります
   



着実に静かに、

長年磨き上げてきた基本的な技をそのコンテンツで発揮することにより、

再びその分野がきっちりとした目が覚めるようなものを取り戻していく、

(甚だ僭越ではありますが)そのごくささやかな一助になればよいと考えています。
  (「おまえらなんぞまだまだだよ。井の中の蛙たちだよ」という意見もたくさんあると思います。それはまあ、そういうことなんでしょう)




ひと昔前の人が書いたような、

やわらかくて、抑えてあって、品があって、

何文字書いても・どんな文字を書いても簡単には崩れない

安定感あるものに、

今はあまり出合えなくなってしまいました(-_-)。。。

  


昭和初期から中期は、

明治生まれの真の実力作家百花繚乱のよい時期だったなあ、

ということは、

多くの人が認めるところではないでしょうか。

特に手紙をみると格の違いが歴然としています。
わたしは、関西のある大学の名誉教授[当時]の方の指導や考え方に、
深い深い感銘を受けました。間〈ま〉の感覚にも共鳴。
「この人の指導はいける」と感じたのは今までの人生でこのかただけじゃないかな。
 志賀直哉の「内村鑑三先生の憶ひ出」の言葉をかりて言えば、

……内村先生が或時、教育といふ言葉は英語でエデュース、
これはその人にあるものを「ひき出す」といふ意味だと云はれた事がある。
内村先生でも、祖父でも、武者小路でも私とはかなり皆(みんな)、別な人々である。
これらの人々に私が影響を受けたといつても私にないものを
これらの人々から与へられたといふのではなく、
あるものが共鳴によつて、はつきり自分のものになつたとい云ふ意味……
」。
中庸文字の理想像は昔からずっと自分の中に思い描いています。
ただ、その風合いをきっちり形にするという技能がずっとありませんでした。
長年、基礎基本を鍛えることによって、近年ようやく、
だんだん形として(その空気感も)現せるようになってきましたが、
これもひろい意味で、ひきだす、という事象だと思います。
結局、人は自分の中にあるものをうまくひきだすために勉強するのがよく、
人に添加されることを喜んでいるようでは、気持ちのこもったものはできないと思います。
人に習うのなら、あるものをひきだせる能力をもった人に習うべきですね。
君子は人の美を成す。指導者には、教える技術・教えるセンス・
絶えず改良していこうという気持ち、これらが大切。
もし、ある学校に、バージョンアップしようとしない教師ばかりが集まっていて、
異動もほとんどないならば、その空間は、その人たちが定年になるまでの何十年もの間、
時間が止まったままになります。。。 
ウイルス化すればたちまち全体が凋落します。

悪影響ってほんとに伝播しやすい。  学校だけの話でもありませんが・・・・・・。
まあ、習う側の姿勢で考えた場合、いつも人に頼っているようなそんな甘ちょろいことでもだめですよね。
自分自身の頭で真剣に考えたいものです。
もっとも、吾が仏尊しのような偏執的な人も、
それはそれで各自それぞれが楽しければそれでいいと思います。
人それぞれです。思考を放棄した、考えない葦になったほうがラクではあります



 
 

小野小鵞はがき見本.jpg
小野小鵞おのしょうが、名・光雄、1896〜1921年、26歳で夭折)筆の
ハガキ見本
小野小鵞は小野鵞堂(おのがどう、1862〜1922)の御子息。
この見本(下の二枚も小鵞筆)は
小野小鵞が25歳前後に、
ハガキに書いたもの


もっと命があったなら、

線がだんだんやわらかくなって、

もしかしたら

黒木拝石くろきはいせき、1886〜1950)や

吉田苞竹よしだほうちく、1890〜1940)や

松本芳翠まつもとほうすい、1893〜1971)の

手紙を凌いだかもしれません。

 
小野小鵞はがき表書き見本.jpg

小野小鵞筆(25歳前後)
 
小野小鵞書籍緒言.jpg

著書緒言(小野小鵞筆25歳前後)




黒木拝石くろきはいせき筆書.jpg

黒木拝石筆の手紙(40代後半)
便箋に書かれたもの

驚くべき手腕






吉田苞竹よしだほうちく筆手.jpg

吉田苞竹筆の手紙文(40代半ば)

便箋


線が澄んでいる。

これほどの手紙を書ける人が
同時代に大勢いらっしゃる時代は、
なんてよい書の時代だろう。



吉田苞竹氏は数え年51歳で急逝。
もし80歳くらいまで生きていらっしゃったら、
多くの人が感化され、
今の書の世界にも、
もっと澄明・堅実な作が多くなっていたかもしれない。








松本芳翠まつもとほうすいハ.jpg

松本芳翠筆ハガキ(39歳頃)
毛筆
ハガキに書かれたもの。

実寸はとても小さな文字。


20代後半・30代前半から、すでにこのレベルと思われる。
今の書家とは精神力が違う。




まつもとほうすいハガキ・筆.jpg

松本芳翠ハガキ(39歳頃)
ペン

万年筆の線の性情では、私は、和辻哲郎〔わつじてつろう、1889〜1960〕氏のものがとてもいいなと思っています
 

 



 
「愚」(おろか)という貴い徳を忘れて、

利口な人同士が激しく軋み合ってばかりいる今のような時代に、

しみじみとした、いい書が生まれる素地はあるのかなあ。。


また、書(しょ)を書くなら自分の身体からにじみ出た言葉を書きたいものです。


自分で考えてみたこともないような内容の言葉を、

文字の表面的な形にばかり頓着して作品を書いても、

ふつうは虚無感しか残らないような気もします。

 


 






俳人・小原菁々子おはらせいせいし、1908〜2000、俳誌『冬野』主宰)筆の色紙

 
しっかりとした言葉を持った人の書は

やっぱり迫ってくるものがある。



 
q.jpg

高浜虚子(右)と小原菁々子(傘をさしている男性

(自分のことよりまず相手のことを、というような、
このような姿を見ると私は感動します。
例えば、キャッチボール。これも、子供は、遊びの中で、
相手にどのように投げたら相手が受け取りやすいか、という、
まず相手を思いやる心を育てることができます。
チンパンジーと人間の赤ちゃんの成長は、
三歳まではチンパンジーの方が人間よりもややすぐれているようですが、
三歳を過ぎてからは、人間の方だけがどんどん成長していきます。
その一番大きな差は、
相手の立場になって物事を考える能力を
人間は徐々に育むことができる、
ということにあるそうです。
チンパンジーはいつまでも
自分自分という感じだそうです)




o.jpg

菁々子

「菁々子鶴寿」

 
r.jpg

小原家に来訪した高濱虚子 昭和21年

たかはま‐きょし【高浜虚子】
俳人・小説家。本名、清。愛媛県松山生れ。二高中退。正岡子規に師事。
「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。「五百句」「虚子俳話」など。
「俳諧師」「風流懺法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。(1874〜1959)
広辞苑


たとふれば独楽(こま)のはぢける如くなり 高浜虚子  昭和12年
 
盟友・河東碧梧桐の死を悼んだ句。
 
絶妙な表現



 
s.jpg

矍正子先生・矍税尾先生・稲畑汀子先生 御選句




◇・◇・◇



武者小路実篤・印實篤斉白石.jpg

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ、1885〜1976)筆の
實篤
印章〔實篤〕は斉白石刻。この印が実篤氏一番のお気に入り

文字に意力・気韻がある。

せい‐はくせき【斉白石】
(Qi Baishi)中国の文人画家・篆刻(てんこく)家。
名は〓(こう)、白石は号。湖南湘潭の人。長く在野の画家としてすごした。
人民共和国では人民画家として尊敬される。(1864〜1957)広辞苑





武者小路実篤夫妻

武者小路実篤氏は、
夫人(安子氏)とずっと一緒にいなければだめだった人で、
実篤氏の息女が家に来た時くらいしか、
夫人はゆっくりとお風呂に入れなかったそうです。
ただ、娘さんがきているとき、
夫人が、今日はゆっくりと入れるわと思っていても、
実篤氏は必ず「ママは?」(夫人のこと)と
娘さんにきいたようです。
「今お風呂よ」とこたえると、
「長すぎやしないか?」といってソワソワとしだして、
(お風呂へ)「ママまだかあ」と
声をかけにいったそうです。

また、
夫婦で伊勢神宮に参ったとき、
実篤氏は大木を見上げながら、
「ママ、来てよかったね、ママ」を
連発していらっしゃったそうです。

 

実篤氏は、
晩年、
闘病中の夫人の見舞いに行ったある日、
夫人の余命いくばくもないことをさとり、
帰宅後、
ソファにかけたまま何時間も
身動きしなかったといいます。
翌日から、
食べることと、
会話・言葉を忘れました。
夫人が旅立った二ヶ月後、
実篤氏も、
あとを追うように亡くなりました。

夫婦で眠る大愛堂(納骨堂)の瓦には、
実篤氏の「愛」の文字が施されています。







m.jpg実篤・東海林さだお筆.jpg

  ↑水木しげる氏が描いた武者小路実篤氏      ↑東海林さだお氏が描いた武者小路実篤氏


武者小路実篤氏と息女・安子.jpg
↑武者小路安子氏が描いた実篤氏と息女

武者小路実篤氏と御息女昭和1.jpg

武者小路実篤氏と御息女(三女・辰子氏) 昭和13.14年頃



・・・子供時代を経て大人となり、長い父との交流の最後に、
父にひどくどなられた記憶は、
また忘れられようもない。それも十数年以前にもなろうか。
父も「一人の男」に書いているし、
雑誌「心」にも書かれてあるので、
さしつかえもないようだが、
父の晩年にかなり経済的な被害をうけたことがあった。
父の周辺にいると、
父自身が気にしないうちに
事態がひどいことになっていくのが
眼に見えてくる。
父が大眼にみているために、
どうにもならない事態になっていくようにさえ見えた。
眼をつぶってもいられない気にかられて、私はある日、
改まって父に忠告したのだった。
週に一度は父母のところに行くのを、
いつも喜んでくれるのだが、
そのことにふれたとたんに、
父は不機嫌になって
「くだらないことに頭をつかう気はない」
という態度である。
年中お金に追われているような者は、
面白くない毎日を送っているのだから、
可哀そうなくらいだと思っていると超然としていて、
そんな失う金の行方を気にせず、
それこそ一心にジャガイモをかいていたい様子だった。
私も怒りっぽい性格だから黙ってもいられない。
「それでは、みすみすその人を悪くするようなものじゃないの、
正直者は馬鹿をみるというのが良いの」
と言った。
そのとたん、父はいきなりどなった。
あまりすごいので、何といったかもわからない。
ただ得をしたいために正直にしたいのか、
という点を問題にしていることはわかった。
正直にしたいのは、自分で気持が良いからするので、
損得で正直にするというのは、それこそウソだ、
お前はそんななのかと、
父は怒っているらしい。
 
 
 
私もその時カッカッとしていて、
「また来ますからね」と言って帰ったのだが、
あとで母から聞いた話では、
その後父は母と顔を見合せて、
「もう来ないと言うところを、辰子はまたくると言ってくれた。
また怒りにくるつもりらしい」
と語り合って、
半分なげき、半分喜んだというのである。
さらに父は間をおいて何度も、
「またくると言ってたナ」と
母に念をおしたそうだ。
 
 
こんなふうでは怒りっぽい娘でも、
あっけにとられるより仕方ない。
しかも間もなく父が太い字で、
こんな書を書いているのを知って驚いた。
「ある人が正直者が損をすると言った。
そんな損ならしてみたい」
 

「ある人」とは外ならぬ娘の私に違いなさそうだった。
自分の娘であっても、自分の考え方としては、
「ある人」という対立する存在とみたらしい。
一方では人からどんなにひどいウソをつかれても、
むしろ許容していた父である。
それはむしろ対立とは考えなかったのだろう。
父はまた、
正直に生きられる世の中に正直でありたいと願っていた。
正直になり切れない世の中に、
人をだます人を、可哀そうとみた父だと思う。
しかもあのどなりようの激しさは、
信頼したい娘との間にこそなりたったことかと、
今はなつかしく嬉しい気持もしている。
その後に、父の家も知らない間に抵当に入っており、
始末もすぐにはつけられようもない事態になってきたことが、
ようやく父にもわかるようになった。

 
 
 
「娘たちが心配したのももっともだった」と
父はひとこと言ってくれた。
しかし、
「そんな損ならしてみたい」と書いた自分自身を、
まげなかったと思う。
娘にはどなったが、
その人を悪く言わず、とがめもせず、
長いことかかって、
自分のつかわない莫大な借金を返しきった。
苦しみもし、仕事をふやし、身体さえ少し悪くしたが、
したくない仕事までしたのではない。
脇にいる私のほうが、何も力になれず、
ただ銀行などに使い走りをして、
オロオロしたり、ずっとドロンコな思いをした。
父はなおジャガイモをみつめ、カボチャをみつめ通して、
そこなわれない人だった。
 
 
父が亡くなった当時、ある人に、
「先生は寛大でした。お子さんも寛大だと思っている」
と言われたことがあった。
父の寛大さはどう言ったらよいだろう。
そして父のゆるさないきびしい点をどう感じたらよいのだろう。
 
 
「父は自分で黙ってつぐなえる力を持っている
寛大さがありました。
けれど娘にはつぐなう力はないのですから、
責任の負えない寛大さはなり立たないと思います」
ということを、
私は考え、考え、答えた。
 
 
父の甘さを娘としてよく知っている。
父のきびしさも娘として感じとりたい。


    [武者小路辰子『ほくろの呼鈴 父 実篤回想』(筑摩書房)より]







武者小路実篤・安子夫人古稀.jpg

武者小路実篤筆
安子が古稀になったお祝いをくれると言う
安子はことわっていたが どうしてもくれると言う
ありがとう それでもらう事にした
もらった物の画をかいた
昭和四十五年九月六日
安子の古稀の日
八十五歳 実篤






實篤正直に生きられる世の中.jpg

武者小路実篤筆
正直に生きられる世界に正直に生きたい
八十三歳 実篤








日本の文学のながれ変へたりし人の硯はちさくのこりぬ 
 二宮冬鳥(西笑集、昭和55年)

 

 

 

 

 


◇◇◇




話を戻します。


さきほどの、「書(しょ)を書くなら自分の身体からにじみ出た言葉を書きたいものです」

という話はまあいいとして





いつでも、どこでも、誰でも、手軽に便利に、


きっちりとしたものにふれることができる笑う

  

そんな新しい潮流を、


まずは当方から発信します。

何とかして流れを変えたい。ごくわずかでも歩(ほ)を進めたい。弛緩にも歯止めをかけたい
 



 本当に真摯に取り組んでいるものをフリー公開することで、


これからの若者の、育英的な役割も、

ほんのごくごくわずかでも果たせたらよいな、とも思っています。
  




漢字専門だの 仮名専門だの、


そんな  しみったれたこと  は


言っていられません。



 
新しいコンテンツへ

 

 

 

 

 

 

その3〕〔その4〕〔その5〕へつづく。





その1〕へもどる。






 




広告



        

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>
        

profile

手作り住所印のお店「寧洛菴」

手作り住所印のお店「寧洛庵」はこちら
あなただけのオリジナル住所印をお作りします。

「寧洛菴」は、日本で唯一の篆刻住所印専門店です。

お届けまでの日数は、現在約60日間いただいております。《誠に勝手ながら、多忙につき暫く休業致します(受注およびお問い合わせも休止させていただきます)。再開日は未定です。誠に申し訳ございません》

entries

categories

archives

        

スポンサードリンク

        

links

search this site.

others

mobile

qrcode